自由度の問題点と『ドラゴンクエスト』に見るその制限の方法。
上の記事を読了してから、こちらの記事を読んで頂きたい。
自由度とは不親切さ
突然ではあるが、僕は『自由度』というのは『不親切である』ことが根底にあるように思う。
上の記事から引用しよう。
こんな経験はないだろうか? なんでもできることがウリの作品に初めて触れた時、唐突に世界に放り出された用に感じ、何をすればいいのか分からず適当にぶらついて試しに色々やってみたけどしっくり来ることが出来ず、ついにはゲームを積んでしまったことが。 もしくはそういったゲームの攻略法や遊び方、プレイ動画を閲覧し遊び方を把握し自身の行動を規定してから一気に遊びやすくなった、と言った経験が。
「物理的自由度」の過剰投与は、ゲームの楽しさを殺すって話 - GAME LIFE HACK
これの『何をすればいいのかわからない』というのは物理的な自由度の弊害だが、それは同時に何をすればよいかという説明のない不親切さの証明になるわけだ。
攻略法、遊び方、プレイ動画を見なければ理解できないという事はゲーム側が説明を放棄し、プレイヤーを突き放している事に他ならない。
プレイヤーがやりたいと感じるもしくは以上の状況を的確に用意したもの、種類自体多くは用意されてないがハッキリと的確に異なる選択肢を用意するようなものを「精神的自由度」と定義したい。 例えばFALLOUTやTESシリーズで「撃ち殺す」や「説得する」の他に「寝返る」といったもの、もしくはスプリンターセルやHALO3、スーパーマリオ3Dワールドなどに用意されてるような多方向からの移動や攻略アプローチの手段などである。これらはレベルデザインの技術によって出来が左右すると考えている。
「物理的自由度」の過剰投与は、ゲームの楽しさを殺すって話 - GAME LIFE HACK
精神的な自由度に関しては、『異なる選択肢』、『アプローチの手段の多さ』、精神的な自由度もまた、不親切だろう。
辿るべき道が示されていないということはある種プレイヤーを導く事を放棄し、放任した形になっているのだから。
以上の事から、「自由度とは不親切である。」というのが僕の弁だ。
別に自由度をディスっているわけではない。現実において何かしらに突き放される。という事は、誰かしら(親だとか社会的地位やらなんやらかんやら)に取られていた自身の舵を放棄されたと言う事であり、それを自分で手に取って好きに操作して良いという事でもある。
例えば、一人暮らしのようなものだ。親の庇護から離れて、不安に駆られつつ生活するというその体験は刺激的で、面白い。ゲームの自由度というのもそんなものなのだ。
しかしながら、自由度というものは不親切さであるから、突き放されすぎると毒になって非常につまらないものになる。
自由度の高い作品はプレイヤーにその世界でのあり方を考えさせ、そういった作品の経験が少ないと「何をすればいいのか」と言った考えが「思いつかない」ケースがしばしば発生する。攻略経路を「考えさせすぎる」というプレイヤーの閉塞感は無視できない。
「物理的自由度」の過剰投与は、ゲームの楽しさを殺すって話 - GAME LIFE HACK
突き放され、『何をすればいいのか』を考えなければならない。何かをするにも自主性に任されてしまう。
ベイビーの頃から自主性に任されたりする欧州、欧米人には熟せる人は居るだろうが、自主性なんてなんのそので「とりあえず右に倣おうぜ!」って気質の日本人には厳しいし、大抵はどうしようと悩み続ける事になる。最低でも日本人にとっては摂取しすぎると責め苛ませる毒なのだろう。自由度というものは。
結局の所、自由度を過多に摂取し『何をすればいいのか』と考えさせすぎることで発生するプレイヤーの閉塞感や、自由に雁字搦めにされてそれがゲームの面白さを殺す、というのは自主性に任されすぎ、寄る辺がない状態になった結果だと僕は思う。
その証拠に、誰かの解決例を見せてやることで自由度の問題の大抵は解決する。模範解答を見て、その答えを使ったまま解決するのも、その例をアレンジして自身の答えにしてやるのも、ただ単に答えを探す事よりもずっと簡単だし、自主性に頼らなくとも良いからだ。
だからマインクラフト系統のものづくりゲームの実況動画はいつみてもアホみたいに視聴数が多いわけである。多分そのまま写す、もしくはアレンジする模範解答を皆探しているのだろう、多分。
と、いうように自由度、そしてその摂取過多による問題点を語ったわけだが、
自由度の根底とは先ほど書いたように不親切さにある。不親切だから有り過ぎると何をすれば良いのかわからない。
だけれども、逆に親切でそれを制限し過ぎるのもそれはそれでつまらなさの源だ。
自由度とそれを制限する事の塩梅を丁度良い具合にして作り上げたものが誰がやってみても面白いゲーム…だと僕は二十年程のゲーム人生を振り返るとそう思う。
日本人で、誰がやってみても面白いゲームといえばやはり日本国内で最も有名なRPG『ドラゴンクエスト』、これだろう。どうやってドラクエがRPGの要素をわかりやすく完成させたのかというのを例にして、自由度の制限の仕方というものを考えてみようと思う。
『ドラゴンクエスト』に見る自由度の縛り方
まず、ドラゴンクエストは コンピューターRPGの複雑さを家庭用ゲーム機、ファミリーコンピュータにシンプルに落とし込む事ができたのが偉大である所以であろう。
そもそも『ウルティマ』『ウィザードリィ』に代表されるような職業、パーティシステムといった自由度は、当時の日本人には広大に過ぎた。
まぁ、コンピューターRPG自体元はTRPG発祥で、それをPCに落とし込んだマニア向けのゲームであるからして、そういった一般ウケがしにくい所が多いのは仕方がないが、
それらはドラゴンクエストに落とし込む際に削ぎ落とされ、シンプルに主人公であるロトの戦士一人での王女を取り戻す為の竜王退治の旅が、初代ドラゴンクエストのすべてになっている。その根本からして非常に親切に自由度を徹底的に制限してくれているようだ。
スタートからのチュートリアルも中々に親切だ。
ゲームをスタートすると、ラダトームの城の王様の部屋からスタートする。
画像はスマホ版で申し訳ないが、ファミリーコンピュータ版では、メニューを開き、適切なコマンドを選ぶことで行動をする事ができるのだが、ドラゴンクエストを始めた人は、この部屋で
- 『はなす』のコマンドでは人と話せる
- 宝箱は上に乗って『とる』を選べばアイテムを入手できる
- 道具の『かぎ』がないと扉が開かない
- 『かいだん』のコマンドで階段の昇り降りをする
事が説明書を読まなくとも理解できるようになっている。
最初のバージョンでは、ラダトームの城と町の中間地点でフィールドからスタートするようになっていたらしいが、
テストプレイヤーが、皆城にも町にも入らない、装備も整えないままにどんどん好き勝手に遠くへと歩いていき、強い敵に倒されるというパターンが多かったそうだ。
すぐ近くに城や町があるのだから、そちらに最初に行くだろうと開発者の堀井雄二さん達は考えていたが、そういう意図はハッキリと形にしないとプレイヤーは汲んでくれないものとこれで気づいたわけだ。
だから最終的にはスタート地点は城の王様の部屋になり、どこにも行けないように鍵のかかった扉と階段で閉じ込め、チュートリアルとしてそのゲームのお約束をすべて理解した上でスタートするという形になったのだ。
しかしながら、ただチュートリアルとして不自由にし、最初の部屋から脱出するだけではない。
「はなす」のコマンドで『情報を集め』
宝箱から入手した「かぎ」…『アイテムを使用し』
「とびら」という初心者には解らない『謎を解き』
「かいだん」を降りることで『新たな世界へと歩みを進める』
これらの段階はRPGの醍醐味である。王の部屋はその縮図なのだ。それらの段階を体験して旅に出発出来るというのはRPGのチュートリアルとしてはこの上ない導入なのであるし、プレイヤーの束縛の方法なのだろうと思う。
ラスボスである竜王の元へ行く導線の引き方の上手さも見事と言わざるを得ない。
スタート地点であるラダトーム城を出ると、右下に湖か、大河かを挟み、何やら禍々しい城が建っている。
ラダトームの町で、情報収集をすると、ラスボスである竜王の城らしい事がわかる。
早速城から出て自由になったと思いきや、最終目標の城を見せつけて、プレイヤーの緩んだ心をキュッと引き締める。
スタート地点の近くにラスボスの居城があれば、何をすればいいのかと目標を見失う事はないし、竜王の城には、どんなモンスターが待っているのだろう、竜王とはどんなやつなのだろうという期待と不安を、スタートした時点から与えてくる。
最高のラストへの導線だし、かなり良い自由の縛り方だと思う。嫌でも最終目標への道筋を作らされるのは非常に良い制限の方法だ。
そうして旅に出ようと、フィールドに出ると、何となくもの悲しげなフィールド音楽「広野を行く」が流れる。
「フィールドに出ると、もうゲーム側は親切にはしてくれないんだぞ。」と、ようやくこのゲームでの自由を享受することと、それによる不親切、突き放しの始まりをプレイヤーにBGMで教えてくれる。
冒険は前人未到の土地へ行く期待だけじゃあない。不安、苦しさも抱いて、広野を行くんだと教えてくれる。旅立つ者へのゲームからの最後の親切、いや「祝福」なのだ。
自由度の制限の仕方も良く、美しいゲームはその自由への解き放ち方も良く、美しいものなのだとこの事からわかる。
そうして旅に出たロトの戦士は期待と不安の中、皆自由を享受し、それを楽しみながら、終には竜王を倒すのだ。
色々と書いてみたが、『ドラゴンクエスト』の自由度の制限は昨今の自由度を売りにしたゲームよりも結構キツめのようではあるものの、決して苦しいものではないし、寧ろ心地良いもののようにも思う。
緩めであるよりも、キッチリ型に嵌っている方がよい事もあるものだ。
しかし、結構キツめに自由度を制限されていたドラゴンクエストではあるが、それは、日本人をRPGに慣れさせる為と容量の問題というのが理由の一つにある。初代でプレイヤーをRPGに慣れさせ、64KBカセットから、128KBのカセットに移行し、Ⅱ、Ⅲとナンバリングを重ねる毎にRPGのお約束であるパーティシステムや職業、複雑になって行き、オムニバス形式に至る深いストーリー等と制限が緩み、最近ではそういった制限はほぼ無いものと言っていい。完全自由と言うわけではないが、最近のドラクエは自由度が色々とあって面白い。Xはネトゲだったりもするし。
だけれども、初心者への気遣い、物語の導線はキッチリと張られてそこだけは譲らず制限している。
堀井さんは、「漫画家には手塚治虫になるか、藤子不二雄になるかという言葉がある。」と言った。
手塚治虫は漫画についてちゃんとわかっている人に向けて難解な漫画を描き、藤子不二雄はそうでない人に向けて優しくわかりやすい漫画を描いていた。どちらを選ぶかという意味だ。
そして堀井さんは、「ゲームもその通りで、熟練したプレイヤーに向けるか、あくまで初心者に向けたものにするか。ドラゴンクエストはやはり藤子さんのようになれたら良いな」と続けている。
そうした事を言えるくらいに自覚した気遣い、親切がいつまでも出来る優しさがあって、不親切であるところの自由度の具合や、それに落としこむタイミングもまたうまい具合に出来ているのだ。ドラゴンクエストは。
上の記事では、自由度の幼年期の終わりと締めていたが、
つねに物理的、精神的自由度とその制限に常に向かい合い続けたドラゴンクエストは、発売した時に多分その時代の自由度の幼年期というものを終わらせたのだと僕は思うし、昨今の自由度の過剰投与こそがゲームを殺すのなら、やはり『ドラゴンクエスト』の元へと、プレイヤーと親身に向き合うゲーム作りの場所へと帰らなければならないのだと思う。
生半可な向き合いでは駄目なのだろう。現在のゲームは自由度という不親切に、そしてマネタイズの意識に塗れている。
「 今、RPGは優しさの時代へ。」
と言うキャッチコピーは、確かイースⅠだったか。確かドラゴンクエストの1年後ぐらいの作品だ。ドラゴンクエストを以ってそう思って付けたキャッチコピーとしたのかは知らないが良い言葉だ。
ならば今度は範囲を広げて、「今、ゲームは優しさの時代へ。」にしなければならないときが来ているのかもしれない。